
イギリスの歴史において「ピューリタン革命」と「名誉革命」は、国の政治体制を大きく変えた重要な出来事です。どちらも国王の権力を制限し、議会の力を強める結果につながりましたが、その過程や背景には大きな違いがあります。
ピューリタン革命は17世紀に起こった内戦で、国王チャールズ1世が処刑され、一時的に共和制が成立しました。一方、名誉革命は1688年に起こった無血革命で、国王ジェームズ2世が追放され、議会主導の立憲君主制が確立されました。


つまり、ピューリタン革命は武力による政権交代、名誉革命は平和的な政権交代という点で大きく異なります。この2つの革命を理解することで、イギリスの民主主義発展の流れをより深く知ることができます。
- ピューリタン革命と名誉革命の背景や原因の違い
- 両革命の過程と結末の違い
- 国王の扱いと政治体制の変化の違い
- それぞれの革命が後世に与えた影響の違い
ピューリタン革命と名誉革命の違いをわかりやすく解説

ピューリタン革命とは?わかりやすく解説
ピューリタン革命とは、17世紀のイギリスで起こった内戦のことです。この革命は、国王の専制政治に反対した議会勢力と、王権を守ろうとする王党派が対立した結果、激しい戦争へと発展しました。特に、宗教的な対立も背景にあり、ピューリタン(清教徒)と呼ばれるプロテスタントの一派が大きな役割を果たしました。
この革命の結果、当時の国王チャールズ1世は処刑され、イギリスは一時的に共和制となりました。これにより、国王の権力が制限され、議会の力が強まるきっかけとなりました。ただし、最終的には王政が復活するため、一時的な変化にとどまったとも言えます。
ピューリタン革命はなぜ起きたのか?原因と結果

ピューリタン革命が起きた背景には、政治的・宗教的・経済的な要因が絡み合っていました。
まず、政治的な要因として、当時の国王チャールズ1世は議会の同意を得ずに課税を行い、独裁的な政治を続けていました。これに対して議会側が強く反発し、国王と議会の対立が深まりました。
次に、宗教的な要因として、イギリス国教会の体制を強化しようとした王政側と、より純粋な信仰を求めたピューリタン(清教徒)との間で対立が発生しました。ピューリタンは国王を支持する勢力と対立し、議会派と協力するようになります。
さらに、経済的な要因として、商人や地主層が重税に不満を抱き、王政打倒の動きを後押ししました。彼らは議会を支持し、軍事的な支援を行いました。
この結果、1642年に内戦が勃発し、最終的に議会派が勝利しました。1649年には国王チャールズ1世が処刑され、イギリスは共和制へと移行しました。しかし、軍事的な指導者であったオリバー・クロムウェルの死後、1660年に王政復古が実現し、王政が再び復活しました。
名誉革命とは?わかりやすく解説
名誉革命とは、1688年にイギリスで起こった無血革命のことを指します。ピューリタン革命とは異なり、直接的な戦争はほとんどなく、比較的平和的に政権が交代したため、「名誉革命」と呼ばれています。
この革命では、当時の国王ジェームズ2世が国外に追放され、オランダから迎えられたウィリアム3世とメアリー2世が新たなイギリス国王となりました。これにより、王権が制限され、議会の力が強化されることになりました。
この革命の最大の成果は「権利の章典」の制定です。これにより、国王は議会の承認なしに法律を変更したり、税を課したりすることができなくなりました。これが後の立憲君主制の基盤となり、現代のイギリス政治の礎を築くことになります。
名誉革命はなぜ起きたのか?原因と結果

名誉革命が起きた背景には、宗教的な対立と権力闘争がありました。
当時の国王ジェームズ2世は、カトリック教徒でありながら、国内のプロテスタント勢力を抑え込み、カトリック信仰を広めようとしていました。しかし、イギリスではプロテスタントが多数を占めており、国民や議会の反発を招きました。
さらに、ジェームズ2世が生まれたばかりの王子を後継者にしようとしたことも問題となりました。王子もカトリックとして育てられることが確実だったため、プロテスタント勢力は危機感を強めました。
このため、議会はジェームズ2世を追放し、オランダのウィリアム3世とメアリー2世を新たな国王として迎えました。この際、大きな戦闘はほとんど起こらず、血を流さずに政権が交代したため、「名誉革命」と呼ばれることになりました。
この革命の結果、「権利の章典」が制定され、国王の権力が大幅に制限されました。これにより、イギリスは立憲君主制へと移行し、国王よりも議会の権限が強化されることになりました。
ピューリタン革命と名誉革命の違いを簡単に解説
ピューリタン革命と名誉革命は、どちらもイギリスで起こった革命ですが、背景や結果には大きな違いがあります。
まず、ピューリタン革命は1642年に始まり、国王と議会の武力衝突によって進行しました。一方、名誉革命は1688年に起こり、無血で政権交代が実現しました。
また、ピューリタン革命では国王チャールズ1世が処刑され、一時的に共和制が成立しました。しかし、最終的に王政復古が行われ、王政が再び復活しました。一方、名誉革命ではジェームズ2世が追放され、王政は存続しながらも、国王の権限が大幅に制限される形になりました。
さらに、ピューリタン革命は宗教的な対立と王権の専制に対する反発が主な要因でしたが、名誉革命はプロテスタントとカトリックの対立が大きな要因でした。特に、「権利の章典」の制定によって議会の権力が強化され、イギリスの政治体制に大きな影響を与えました。
このように、どちらの革命も国王の権力を制限し、議会の影響力を強めるきっかけとなりましたが、過程や結果には大きな違いがあります。
ピューリタン革命と名誉革命の違いを簡単に整理

ピューリタン革命と名誉革命はどっちが先?イギリス革命の流れ
ピューリタン革命と名誉革命のうち、先に起こったのはピューリタン革命です。ピューリタン革命は1642年に始まり、最終的に1649年のチャールズ1世の処刑と共和制の成立につながりました。一方、名誉革命は1688年に起こり、無血革命として王政のあり方を大きく変える出来事となりました。
1628年~1640年 国王と議会の対立 | 1628年:議会が王権神授説を信奉するチャールズ1世に対し権利の請願を提出するが無視される 1639年:スコットランドの長老派がチャールズ1世の国王軍に勝利(スコットランドの反乱) |
1642年~1649年 ピューリタン革命 | 1642年:不当な課税や上納金、不当逮捕など悪政に反発する議会軍と国王軍による内戦が始まる 1645年:劣勢だった議会運だがクロムウェルの指揮により国王軍に勝利する 1649年:国王チャールズ1世を処刑。王政を倒し共和政を実現させる |
1649年~1659年 プロテクタート(保護国家) | 1649年:アイルランド征服、1650年:スコットランド征服、1651年:英蘭貿易戦争など、クロムウェルによる独裁政権が強まり国民が反発する 1658年:クロムウェル死去 |
1660年~1688年 王政復古期 | 1658年:クロムウェルの息子リチャードが後を継いだが政権が安定せず 1660年:息子のチャールズ2世が国王に即位し王政復古、父と同じ王権神授説を信奉し絶対王政の復活を企てる。共和政が終わる 1685年:弟のジェームズ2世が国王に即位。議会との対立を再び強める |
1688年~1689年 名誉革命 | 1688年:ジェームズ2世の娘メアリ(メアリ2世)と夫のウィレム(ウィリアム3世)が即位。ジェームズはフランスに亡命した 1989年:権利の章典が制定され、立憲君主制が成立した |
イギリスの政治体制は、この二つの革命を経て大きく変化しました。ピューリタン革命では一時的に共和制が成立しましたが、クロムウェルの死後に王政復古が行われ、1660年にチャールズ2世が即位しました。しかし、その後も国王と議会の対立は続きました。そして1688年、国王ジェームズ2世の専制政治とカトリック政策に反発した議会がウィリアム3世を迎え、名誉革命が成立しました。
このように、ピューリタン革命と名誉革命は約40年の間隔を空けて発生しましたが、どちらも国王の権力を制限し、議会の権力を強化する流れを作った重要な出来事でした。
ピューリタン革命と名誉革命の影響は?

ピューリタン革命と名誉革命は、イギリス国内だけでなく、ヨーロッパ全体にも大きな影響を与えました。
まず、ピューリタン革命の影響として、国王の権力が絶対的なものではなく、議会が重要な役割を果たすべきであるという考えが強まりました。特に、王の専制政治に対抗しうる議会の力が認められたことで、立憲政治の土台が築かれました。さらに、ピューリタン革命を主導したオリバー・クロムウェルの政策により、イギリスは一時的に共和制へと移行しましたが、最終的には王政が復活しました。このため、革命の影響は一時的なものにとどまった部分もあります。
一方、名誉革命は、ピューリタン革命よりも永続的な影響を持ちました。この革命によって「権利の章典」が制定され、国王が議会の承認なしに法律を変更することができなくなりました。これにより、イギリスは立憲君主制へと移行し、現在のイギリス政治の基盤が築かれました。また、この革命の影響を受け、他の国でも絶対王政に対する疑問が高まり、フランス革命などの市民革命へとつながる思想的な影響を与えました。
このように、ピューリタン革命は王政に対する抵抗の第一歩となり、名誉革命はその流れを決定的なものにしました。両者はイギリスの政治体制を大きく変え、後世の民主主義の発展に貢献したと言えます。
ピューリタン革命と名誉革命が現代に与えた影響
ピューリタン革命と名誉革命は、現在の政治制度や社会の在り方に大きな影響を与えました。特に、民主主義や立憲主義の発展に深く関わっています。
ピューリタン革命の影響
- 王権の制限:国王の権力を抑え、市民の権利を守る考え方が広まる
- 民主主義の基盤:国家権力の制限や市民の意見を反映する政治体制の重要性が強調される
- 宗教の自由:ピューリタンが求めた信仰の自由が、現代の「信教の自由」の考え方につながる
名誉革命の影響
- 議会制民主主義の確立:「権利の章典」により、国王の権限が制限され、議会の承認が必要になる
- 法の支配の強化:国王でも法律を守るべきという考えが定着し、立憲主義が発展
- 世界への影響:アメリカ独立宣言やフランス人権宣言に影響を与え、人権思想の広まりに貢献
現代へのつながり
- 国民の意思を反映する政治:選挙制度や政党政治の基盤が作られる
- 人権の重視:個人の自由や権利を守る社会の基礎が確立される
このように、ピューリタン革命と名誉革命は、イギリスだけでなく世界の政治や社会に大きな影響を与えました。現在の民主主義国家の基本原則にもつながる重要な歴史的出来事です。
ピューリタン革命と名誉革命の違い|Q&A
まとめ:ピューリタン革命と名誉革命の違いを総括
- ピューリタン革命は1642年に勃発し、武力衝突を伴う内戦であった
- 名誉革命は1688年に起こり、ほぼ無血で政権交代が実現した
- ピューリタン革命では国王チャールズ1世が処刑され、一時的に共和制が成立した
- 名誉革命では国王ジェームズ2世が国外追放され、王政は存続したが権力が制限された
- ピューリタン革命は王権の専制に対する反発と宗教的対立が背景にあった
- 名誉革命はカトリックとプロテスタントの宗教対立が大きな要因であった
- ピューリタン革命後、クロムウェルが独裁政治を行い、その死後に王政復古が起きた
- 名誉革命後、ウィリアム3世とメアリー2世が即位し、議会主導の政治体制が確立された
- ピューリタン革命では一時的に共和制が成立したが、最終的には王政が復活した
- 名誉革命では「権利の章典」が制定され、議会の権限が大きく強化された
- ピューリタン革命は国王と議会の権力闘争が主軸であり、民主化の過程の一部であった
- 名誉革命は王権を制限し、立憲君主制の確立へとつながった
- ピューリタン革命はイギリス国内の政治改革が中心だったが、名誉革命は他国にも影響を与えた
- 名誉革命の影響で、アメリカ独立戦争やフランス革命の思想形成に影響を与えた
- 両革命ともに王権の制限と議会の権力強化を促し、現代の民主主義発展に貢献した