
江戸時代の社会を学ぶうえで、「旧里帰農令と人返しの法の違い」は受験でもよく問われるテーマのひとつです。どちらも都市に流入した農民を農村に戻す政策ですが、その目的や手法、そして効果にははっきりとした違いがあります。この記事では、「旧里帰農令とは」何か、また「人返しの法とは」どんな内容だったのかを整理しながら、「旧里帰農令の目的」「旧里帰農令の効果」「人返しの法の目的」などのポイントも含めて詳しく解説していきます。
結論として、旧里帰農令は農民を自主的に帰農させる奨励型の政策であり、人返しの法は都市住民を強制的に地方に戻す命令型の政策でした。両者の違いをしっかり理解しておくことが、受験対策のポイントになります。
- 旧里帰農令と人返し令の目的や背景の違い
- 両法令の発布年と実施した人物の違い
- 奨励型と強制型という施策内容の違い
- それぞれの政策がもたらした結果と問題点の違い
目次
旧里帰農令と人返し令の違いを簡単に解説

- 旧里帰農令とは?簡単に説明
- 旧里帰農令の目的は農村復興の促進
- 旧里帰農令はいつ出されたのか
- 旧里帰農令は誰が出した法令か
- 旧里帰農令の効果と結果はどうなったか
旧里帰農令とは?簡単に説明

江戸時代後期、幕府は都市への人口集中と農村の荒廃という深刻な社会問題に直面していました。そのような背景のもとで1790年(寛政2年)、旧里帰農令(きゅうりきのうれい)が発布されました。
この法令は、もともと農民であった人々が都市へ移住し、農業をやめて職を探している状況に対応するために制定されたものです。簡単に言えば、都市に流出した農民を元の村(旧里)に帰して再び農業に従事させることを目的とした法令です。
当時、江戸や大坂などの都市には仕事を求めて多くの農民が流入していましたが、その一方で農村では人手不足となり、耕作地が荒れ、年貢の徴収にも支障が出るようになっていました。幕府はこれを重大な問題と捉え、農民を再び農村へ戻すことで農業の再建を図ったのです。
この政策は、一見して農業振興策に見えますが、実際には財政再建や治安維持の意味合いも含まれており、単なる「田舎に帰れ」という通達ではありませんでした。
旧里帰農令の目的は農村復興の促進

旧里帰農令の中心的な目的は、荒廃する農村の再建と幕府財政の安定化にありました。江戸時代後期には、社会構造の変化や天候不順、飢饉(特に天明の大飢饉)などの影響で、農村では深刻な人手不足が発生していました。
1. 農村人口の回復
18世紀後半、農民が生活苦から都市部へ流出する現象が増加しました。都市に集まった人々の多くは、無宿者(定職・住居を持たない人)や日雇い労働者となり、治安の悪化を招きました。一方、農村では労働力が不足し、耕作放棄地が増加。幕府はこの人口移動を問題視し、旧里帰農令によって農民を元の村へ戻すことで人口バランスの是正を図りました。
2. 耕作地の再活用と年貢確保
農村が荒廃すれば当然、年貢(米や金銭による税)の徴収にも支障が出ます。幕府の財政は年貢に大きく依存していたため、耕作放棄地を再び農業地として活用することが急務でした。旧里帰農令によって農民を呼び戻すことで、年貢収入の安定化と財政の立て直しを目指したのです。
3. 倫理的・道徳的な再教育
旧里帰農令は、単なる労働力の再配置にとどまらず、農民としての本分に立ち返らせる「道徳的復興」という意味も持っていました。松平定信は「質素倹約」と「勤労」を尊ぶ価値観を重視しており、農民が都市で浪費的な生活を送ることを戒め、真面目に働く社会を取り戻そうとしました。
こうした目的からもわかるように、旧里帰農令は「農村復興」という言葉に象徴される政策であり、幕府の存続に関わる深刻な状況下で打ち出されたものでした。
旧里帰農令はいつ出されたのか

旧里帰農令は、1790年(寛政2年)3月に発布されました。これは江戸幕府第11代将軍・徳川家斉の治世下、老中首座として政務を取り仕切っていた松平定信による政治改革「寛政の改革」の一環です。
1. 時代背景:寛政時代の社会状況
旧里帰農令が発布される前、日本は**1782年から1787年にかけて発生した「天明の大飢饉」**の影響を強く受けていました。この飢饉によって全国的に食料不足が起き、特に東北地方では餓死者が大量に出るなど深刻な社会不安が広がりました。
さらに、農村では疲弊した農民たちが都市部へ流入し、結果として農業の担い手不足や農地の荒廃、治安の悪化、年貢収入の減少といった問題が噴出します。
こうした事態を受け、幕府は根本的な対策を模索する必要に迫られていたのです。
2. 寛政2年(1790年)の発布とその意義
このような中で出された旧里帰農令は、1790年という年が象徴するように、危機的な状況下での緊急的かつ象徴的な法令でした。幕府は、単に農業復興を目指すだけでなく、秩序と安定の再構築を図る政策としてこの法令を位置づけていました。
松平定信はこの政策を「農村を立て直すことで幕府政治を再建する」という大きな理念のもとで推進しており、1790年という年は彼の改革思想が具体的に動き始めた転換点と言えるでしょう。
旧里帰農令は誰が出した法令か

旧里帰農令を出した人物は、江戸幕府の老中首座・松平定信(まつだいら さだのぶ)です。
彼は第8代将軍・徳川吉宗の孫にあたり、幕政改革の象徴的存在として知られています。特に、1787年から1793年にかけて実施された「寛政の改革」を主導したことで有名です。
1. 松平定信の政治的立場と理念
松平定信は、第11代将軍・徳川家斉の側近として老中首座に就任。彼は飢饉や財政難、都市と農村のバランスの崩壊など、当時の深刻な社会問題に対して、幕府主導での解決を目指しました。
その中で、彼は祖父・吉宗が行った享保の改革を模範とし、倹約・勤労・道徳の回復を柱とする政策を展開します。旧里帰農令は、まさにこの改革方針に基づいた施策の一つです。
2. なぜ松平定信がこの法令を出したのか
松平定信は、都市に流れた農民が農村に戻ることで、
- 農地の再開発
- 年貢収入の安定化
- 社会秩序の維持
が実現できると考えていました。彼は、単なる人口調整ではなく、社会全体の「再モラル化」を意図しており、農民に本来の役割へ立ち返らせることが政治的な使命だと捉えていたのです。
また、彼の改革は上からの統制色が強く、厳格な道徳観と中央集権的な価値観に基づいていたため、旧里帰農令にもその性格が色濃く表れています。
旧里帰農令の効果と結果はどうなったか

旧里帰農令は、農村復興と幕府財政の立て直しを目的として発令されましたが、その効果は限定的であり、期待された成果を十分に上げることはできませんでした。以下にその理由と実際の影響を詳しく見ていきましょう。
1. 実施の限界と農民の反応
実際には、多くの農民が都市生活に定着しており、容易に元の村へ戻ることはできませんでした。特に、
- 都市で職を得ていた者
- 故郷に帰っても農地が無い者
- 村との関係が途絶えていた者
などにとって、帰農は現実的な選択肢ではなかったのです。
そのため、帰農者の数は幕府の予想を大きく下回りました。
2. 村側の受け入れ困難
さらに、帰農を促された農民を村が受け入れ拒否する事例も多発しました。理由は以下の通りです:
- 村の年貢負担が増えることへの懸念
- 帰農者が無資産・無職であるため、村にとっては「お荷物」になりかねない
- 既存の土地制度と調整が困難
こうした現実的な事情により、政策は机上の空論に終わる側面が強かったのです。
3. 政策評価とその後
歴史学的にも、旧里帰農令は松平定信の理想主義的な改革の一例とされ、成果は乏しかったと評価されることが多いです。
とはいえ、同時期に行われた他の寛政の改革(例えば学問振興や風紀粛正など)とあわせて、幕府が社会秩序の立て直しを真剣に模索していた証でもあります。
また、この政策が失敗に終わったことで、都市と農村の人口動態を強制的に管理することの限界も明らかになりました。
旧里帰農令と人返し令の違いを受験対策視点で整理

- 人返しの法とは?簡単に説明
- 人返しの法とは?簡単に説明
- 人返しの法の目的は都市人口を抑制すること
- 人返しの法はいつ出されたのか
- 人返しの法は誰が制定したのか
- 人返しの法の効果と問題点
- 「旧里帰農令」と「人返し令」受験対策のポイント
人返しの法とは?簡単に説明

人返しの法(ひとかえしのほう)とは、江戸時代後期、天保の改革の一環として出された法令で、都市に流入した農民や無宿者を強制的に元の故郷(旧里)へ帰すことを目的とした政策です。正式名称は「無宿人帰村令」ともいわれます。
この法令は、特に江戸や大坂などの大都市に人口が集中しすぎたこと、および無職で定住先のない人々(無宿者)が増えたことへの対応として発布されました。
1. 人返しの法の概要
- 発令年:1843年(天保14年)
- 実施地域:主に江戸周辺、他の大都市でも一部実施
- 対象者:農村出身で都市に出てきた者(出稼ぎ労働者、浪人、無宿人など)
- 措置内容:それらの人々を元の戸籍がある村へ強制的に送り返す
幕府は、人々を戸籍に基づいて「帰るべき村」に割り当て、地域ごとの住民管理を徹底しようとしました。都市に増えた「浮浪者」や「日雇い労働者」は治安悪化の原因とされ、幕府にとって大きな不安要因だったのです。
2. 名前の由来
「人返し」とは、まさに「人を元の場所に戻す」という意味で、実態をよく表した呼称です。当時の庶民にも印象が強かったようで、この名称で広く知られるようになりました。
人返しの法の目的は都市人口を抑制すること

人返しの法の最大の目的は、急増する都市人口の抑制と、それに伴う社会問題への対処でした。特に江戸では、農村から流入した人々が増えすぎたことで、さまざまな弊害が生じていました。
1. 都市への過度な人口集中の問題
江戸時代後期には、農村での生活が困難になった農民が、
- 出稼ぎ
- 職探し
- 天災・飢饉からの避難
といった理由で大都市に流入する傾向が強まりました。
これにより、江戸や大坂では人口が急増し、仕事にあぶれた人々(無宿者)が町にあふれる状態に。無宿者は犯罪・騒動・疫病の温床と見なされ、治安の悪化と行政の負担増が問題となっていました。
2. 治安維持と人口管理の必要性
幕府は、「五人組」や「宗門人別帳」などで人口や住民の管理をしていましたが、都市の膨張により制度の形骸化が進んでいました。そこで、人返しの法によって都市人口を強制的に減らすことで、住民管理を再び機能させようとしたのです。
具体的な目的としては:
- 都市の無宿者・浮浪者の排除
- 農村での労働力確保
- 行政上の戸籍制度の維持
- 防犯・風紀の正常化
などが挙げられます。
3. 農村復興の副次的意図
人返しの法には、旧里帰農令と同様、農村に人を戻すことで地域の生産力を支える意図も含まれていました。しかし、主眼はあくまで「都市部からの排除」であり、農村側が歓迎したかどうかは別問題でした。
人返しの法はいつ出されたのか

人返しの法が出されたのは、1843年(天保14年)です。
この法令は、江戸幕府が行った「天保の改革」の一環として制定されました。天保の改革は、1830年代から40年代にかけて実施された幕政改革で、特に水野忠邦(みずの ただくに)が中心となって主導した政策群の総称です。
1. 1843年というタイミングの背景
人返しの法が発布された時期、幕府は深刻な社会的・経済的問題に直面していました。
- 1833年〜1839年:天保の飢饉が発生し、全国的に食糧不足となる
- 治安の悪化:都市部に無宿人が増加し、犯罪や騒乱が頻発
- 農村の人口減少:労働力不足により耕作放棄地が増加
こうした問題に対応するため、幕府は都市に集中した人口を分散させ、農村の立て直しを図る必要に迫られました。その一手として、都市から農村への強制的な人員移動政策=人返しの法が発動されたのです。
2. 同時期の関連政策
人返しの法と並行して、
- 上知令(じょうちれい):幕府が江戸周辺の大名領を没収し、幕府直轄地とする政策(結果的に反発を受け失敗)
- 倹約令や風俗取締り:都市生活の質素化と秩序維持を狙った法令群
など、さまざまな統制政策が相次いで出されました。これらはすべて、1840年代の社会不安に対処するための緊急策でした。
人返しの法は誰が制定したのか

人返しの法を制定したのは、江戸幕府の老中・水野忠邦(みずの ただくに)です。
彼は、第12代将軍・徳川家慶(とくがわ いえよし)のもとで老中首座として権力を握り、天保の改革(1837〜1843年頃)を主導した中心人物です。
1. 水野忠邦とはどんな人物か?
水野忠邦は、肥前唐津藩主の家系出身で、1834年に老中に任じられ、その後、老中首座に昇進しました。彼の政治思想は、
- 倹約と風紀の引き締め
- 中央集権の強化
- 都市と農村の再編成
といった、強権的で統制志向の政策が特徴です。
彼が重視したのは、社会秩序の回復と幕府の支配力の強化であり、人返しの法もその一環でした。
2. 天保の改革における位置づけ
天保の改革は、松平定信の「寛政の改革」に続く、幕府による再建政策として位置づけられます。水野忠邦はこの改革で、
- 上知令(江戸周辺の大名領の没収)
- 株仲間の解散(商業の自由化)
- 倹約令や贅沢禁止令
などを矢継ぎ早に打ち出し、幕府による支配体制の引き締めを図りました。
人返しの法も、こうした一連の施策の中で、
- 都市の治安悪化
- 農村の疲弊
- 幕府による人口管理の形骸化
といった問題に対応するために生まれたのです。
3. 支持と反発
水野忠邦の政策は理想主義的で、現実との乖離が大きかったため、
- 大名・町人・農民の広範な層からの反発
- 実施困難な法令の続出
により、改革は失敗に終わり、水野忠邦自身も失脚しました。
人返しの法の効果と問題点

人返しの法は、幕府の期待とは裏腹に、ほとんど効果を上げることができず、むしろさまざまな問題を引き起こした法令として知られています。以下に、政策の実施後に明らかとなった効果と主な問題点を整理します。
1. 実効性の乏しさ
人返しの法は、都市に住む無宿者や出稼ぎ労働者を「戸籍上の村に戻す」という仕組みでしたが、実際の運用は非常に困難でした。
- 対象者の身元確認が困難:多くの人々は長年都市で生活しており、出身地が不明確な者も多かった
- 強制送還に対する反発:本人のみならず、村側でも受け入れを拒否するケースが頻発
- 送還後の生活保障が無い:送り返された人々には耕地も仕事もなく、結局都市に戻ってしまう事例もあった
結果として、「人を戻す」ことはできても、「定着させる」ことはできなかったのです。
2. 農村・都市の双方に負担をかける結果に
- 農村側の負担:帰された者は資産や労働力にならないことも多く、村の年貢負担が増す懸念がありました
- 都市側の混乱:人口を急激に減らすことで、日雇いや雑業などに従事する人が減り、都市経済に打撃を与える場面もありました
3. 政治的・社会的な反発の拡大
この法令を含む天保の改革は、庶民の生活に直接影響する厳しい統制策が多かったため、民衆の不満が爆発。幕府に対する信頼も大きく揺らぎました。
最終的には、水野忠邦自身が改革の失敗の責任を問われ、1845年に老中を罷免されるに至ります。
つまり、人返しの法は幕府の中央集権的政策の限界を露呈した象徴的な失策と位置づけられています。
💡「旧里帰農令」と「人返し令」受験対策のポイント

「旧里帰農令」と「人返しの法(令)」は、江戸時代後期に出された都市への人口集中を抑え、農村を再建しようとした政策という共通点があります。しかし、出された時期や政策の主導者、意図や効果に違いがあるため、混同しないように整理して覚えることが重要です。以下に、受験対策としてのポイントをまとめます。
1. 出題頻出ポイントの比較表
項目 | 旧里帰農令 | 人返しの法 |
---|---|---|
発布年 | 1790年(寛政2年) | 1843年(天保14年) |
主導者 | 松平定信(寛政の改革) | 水野忠邦(天保の改革) |
政策の目的 | 農村人口の回復、年貢確保、農業再建 | 都市人口の抑制、治安維持、無宿者の排除 |
対象 | 都市へ流入した農民(自発的な帰農) | 都市に住む無宿者・農民(強制送還) |
成果 | 一部効果ありだが限定的 | 実効性に乏しく、反発も大きかった |
2. 受験で狙われる「混同」ポイント
- 両者とも「農村に人を戻す政策」なので混同しやすいが、旧里帰農令はより穏やかな誘導策、人返しの法は強制色が強い統制策という違いを押さえる。
- 「寛政の改革=松平定信」、「天保の改革=水野忠邦」というセットで覚える。
- 年代で区別するなら、「1790年(18世紀)」と「1843年(19世紀)」の50年以上の差にも注目。
3. 記述・論述対策のコツ
記述問題で問われる場合、「都市と農村の人口動態の調整を目的とした政策だが、強制性や時代背景に違いがある」といった共通点と相違点をセットで書くのが得点につながります。
たとえば、
「旧里帰農令は寛政の改革の一環として、都市へ流出した農民を自発的に帰農させ、農村の復興を図った。一方、人返しの法は天保の改革において、都市の治安悪化や人口集中に対応するため、無宿者などを強制的に農村へ送り返す政策であった。」
といったように書けると高評価です。
旧里帰農令と人返しの法の違いをわかりやすく整理
この記事全体の要点を以下にまとめます
- 旧里帰農令は奨励的な帰農政策である
- 人返しの法は強制力のある帰村命令である
- 旧里帰農令は旅費や食費の支給を行った
- 人返しの法は支援が乏しく庶民の反発を招いた
- 旧里帰農令は希望者のみが対象だった
- 人返しの法は無職者や農民の子どもも対象に含まれた
- 旧里帰農令は生活基盤の再建支援が不十分だった
- 人返しの法は居住や出稼ぎの制限を法的に規制した
- 旧里帰農令は1790年に松平定信が発布した
- 人返しの法は1843年に水野忠邦が出した
- 旧里帰農令は農村の年貢収入確保を狙った
- 人返しの法は都市の人口過密と治安悪化に対応した
- 旧里帰農令は帰農者が少なく効果が限定的だった
- 旧里帰農令はも再流入が続き実効性に乏しかった
- 旧里帰農令は寛政の改革、旧里帰農令は天保の改革で施行された