
遣隋使と遣唐使の違いがひと言でわかれば、日本史のテストも暗記カードもぐっと楽になります。本記事では、遣隋使とは?何時代の使節か、遣唐使とは?派遣された時代背景を押さえ、遣隋使・遣唐使はいつからいつまで派遣されたのかを年号付きで整理しました。さらに、遣隋使・遣唐使を送った人物とその目的、回数と成果まとめを一覧で比較し、目的・背景の違いを理解しやすいように構成しています。人物名一覧と特徴的なエピソード、受験対策に役立つ暗記ポイントと覚え方、頻出問題と解答例まで網羅しているので、記事を読み終えるころには「どっちがどっち?」のモヤモヤが解消できます。
結論として、遣隋使は600〜614年に4回派遣された対等外交のテストケース、遣唐使は630〜894年に15回以上続いた長期学習プロジェクトであり、短期集中で種を蒔き長期深化で実を結んだ二段ロケットになっています。
- 遣隋使と遣唐使の違い
- 遣隋使と遣唐使はいつ誰を派遣したのか
- 遣隋使と遣唐使の目的と成果
- 受験対策のポイントと勉強法
目次
遣隋使と遣唐使の違い基本情報とその歴史的背景

- 遣隋使とは?何時代の使節か
- 遣唐使とは?派遣された時代背景
- 遣隋使・遣唐使はいつからいつまで派遣されたのか
- 遣隋使・遣唐使を送った人物とその目的
- 遣隋使・遣唐使の回数と成果まとめ
遣隋使とは?何時代の使節か

1. 推古朝の外交方針
6 世紀末、隋が中国を再統一(589 年)すると東アジアには新しい国際秩序が生まれました。倭国(当時の日本)は、朝鮮半島をめぐって高句麗・百済・新羅が角逐するなかで、自国の立場を強化し最新の制度と文化を導入する必要に迫られます。推古天皇(在位 592–628)と摂政・聖徳太子は、「学んで国家をアップデートする」ことを最優先課題に掲げ、隋との直接外交を決断しました。これは冊封体制への編入を避けつつ、対等な交流を模索する大胆な方針でした。
2. 遣隋使の初見と派遣年
中国の正史『隋書』は 開皇 20 年(600) に倭国使が隋朝へ到来したと記し、これが史料上もっとも早い遣隋使の記録です。日本側正史『日本書紀』は 推古 15 年(607)、小野妹子を大使とする派遣を「第一回」と位置づけています。実際には 600・607・608・614 年と、わずか 15 年足らずのあいだに 4~5 回の往復が行われ、614 年(推古 22 年)の犬上御田鍬を最後に隋使節は終幕しました。隋はその 4 年後、内乱の末に滅亡し、舞台は唐王朝へと移ります。
3. 目的と持ち帰ったもの
遣隋使のミッションは大きく三つに整理できます。
- 外交交渉 – 隋皇帝からの国際承認と、朝鮮半島情勢での発言権を得る。
- 制度学習 – 律令法・冠位制・官僚機構など、統治を近代化するためのノウハウを吸収する。
- 文化・宗教交流 – 仏典・法要作法・建築技術・暦法などを持ち帰り、飛鳥文化を飛躍的に発展させる。
小野妹子の607年国書に見える「日出ずる処の天子」という文言は、仏教用語で東西の方角を示しつつ、自国を“天子”と称した事実上の対等外交宣言でした。煬帝は形式上は不快感を示しつつも、高句麗遠征の同盟を視野に入れて対話の窓口を開いたと考えられます。
4. 遣隋使がもたらした変化
遣隋使が帰国後に導入した 冠位十二階(603) や 十七条憲法(604)、仏教・伽藍・漢字文化は、日本国家形成のスピードを一気に加速させました。わずか十数年の交流でもたらされた人的ネットワーク「留学生・学僧・工人」は、のちの律令国家樹立(大化改新~701 年)へと脈々と受け継がれていきます。
遣唐使とは?派遣された時代背景

1. 唐帝国の誕生と東アジア新秩序
618 年、隋を継いで成立した唐は長安(現・西安)を中心に東アジア最大の版図と外交ネットワークを築きました。朝鮮半島の新羅が668 年に統一を果たすと、中国―朝鮮半島―日本列島を結ぶ国際秩序は“唐一極”体制へ転換します。列島側では大化改新(645 年)後の中央集権化が進行中で、最新モデルとして 律令法・土地制度・都市計画・仏教儀礼 を丸ごと学ぶ必要がありました。こうして 遣隋使の路線を継承し、より本格的スケールで唐へ留学団を送り込む国家プロジェクト=遣唐使 が始動します。
2. 律令国家建設と“学習外交”ブーム
日本国内では 7 世紀末に 白鳳文化 が花開き、仏教美術と初唐様式が混交した新しい宮都文化が誕生しました。文武天皇(在位 697–707)は 701 年の大宝律令 編纂に向けて、行政・税制・法律を唐の成文法から系統的に輸入する方針を明確化。702 年には粟田真人を大使とする大型使節(第 6 回)が発ち、約 500 名・四隻編成という当時最大クラスの国家派遣団となりました。以後 8 世紀半ばまでが「盛期」と呼ばれ、帰国者は 都城制(平城京)・官僚制度・科挙式選抜・陰陽道・仏教戒律 など多岐にわたる成果を移植します。
3. 派遣の推移と終焉
フェーズ | 主な派遣年 | 特徴 | 代表的人物 |
---|---|---|---|
初期 630–669 | 630 (犬上御田鍬)〜659 | 随路線の延長。規模小。官制・仏典中心。 | 犬上御田鍬、大唐留学生・道慈 |
盛期 702–752 | 702, 717, 733, 752 | 4 隻500 名体制。律令導入と文化輸入が加速。 | 粟田真人、吉備真備、阿倍仲麻呂 |
末期 804–838 | 804, 838 | 密教僧招聘・海上ルート変更。 | 最澄、空海、藤原常嗣 |
計 12~20 回 派遣という研究者間の議論がありますが、「実際に渡唐した回数」を厳密に数えると 15 回 が妥当とする分析が近年有力です。唐が衰退し黄巣の乱(875–884)で動揺するなか、894 年 菅原道真の建議で派遣計画が中止され、約 260 年に及ぶ国策留学は終焉を迎えました。
4. 文化・宗教面のインパクト
末期遣唐使には 密教僧の最澄(天台宗)・空海(真言宗) が参加し、彼らが唐から直輸入した経典・法具・仏堂儀礼は平安宮廷の精神世界を塗り替えました。また暦法・医学・絵画・庭園技法などが貴族社会に浸透し、のちの国風文化の母体を形成します。
遣隋使・遣唐使はいつからいつまで派遣されたのか

✅ ポイント:
- 遣隋使 → 600~614 年(わずか 15 年あまり)
- 遣唐使 → 630~894 年(実働は 630~838 年、894 年に正式中止)
使節 | 初回派遣 | 最終帰国* | 正式中止 | 派遣期間 | メモ |
---|---|---|---|---|---|
遣隋使 | 600 年(『隋書』倭国伝) ※日本側の「第1回」は 607 年 | 615 年(犬上御田鍬一行の帰国) | ― | 約 15 年 | 600・607・608・614 の計 4~5 回とする説が有力 |
遣唐使 | 630 年(舒明 2、犬上御田鍬) | 839 年(承和 6、帰国完了) | 894 年(菅原道真の建議) | 約 260 年 ※実際に渡唐できたのは 630~838 年の 15 回 前後 | 875 年の黄巣の乱以降、唐の治安悪化で途絶がち |
*「最終帰国」は最後の使節団が日本へ戻った年を示す。
1. 遣隋使(600~614 年)
- 600 年:『隋書』は倭使が開皇 20 年に来朝したと記載。これが 史料上の最初。
- 607 年:『日本書紀』が「第一回」扱い—小野妹子を大使とする国書事件で有名。
- 608 年・614 年:再訪および最終派遣(犬上御田鍬)。翌 615 年に帰国後、隋は 618 年に滅亡。
わずか 15 年で幕を閉じた理由は、隋の内乱・滅亡と、それを受けた日本側の外交転換にあります。
2. 遣唐使(630~894 年)
- 630 年:舒明天皇の命で最初の遣唐使を派遣(犬上御田鍬)。
- 8 世紀前半:702・717・733・752 年など大型船団で頻繁に往復。
- 838 年:藤原常嗣ら第 19 回(諸説)の帰国をもって実働終了。
- 894 年:菅原道真が「請令諸公卿議定遣唐使進止状」を上奏し、派遣計画が正式中止。唐も 907 年に滅亡。
✅ ポイント:
- 学界では「実際に唐へ到達した回数」を 15 回前後 とカウントする研究が主流。名目上の任命だけで出航できなかったケース(804 年以前に 3 回)を除外しているためです。
- 9 世紀後半の治安悪化(黄巢の乱 875–884 年)が安全な航行を困難にし、日本側の留学生需要も減少していました。
遣隋使・遣唐使を送った人物とその目的

1. 遣隋使を送った主な人物
推古天皇(在位 592–628)と摂政・聖徳太子
隋の再統一で国際構造が激変するなか、倭国は“朝鮮半島経由”ではなく 直接隋から制度と仏教を学ぶ 方針を打ち出した。607 年、小野妹子に託した国書に「日出づる処の天子…」と記し、冊封を拒否しつつ対等外交を模索したことが特徴である。
主な大使と目的
使節 | 派遣年 | 送り手 | 主要ミッション |
---|---|---|---|
小野妹子 | 607・608 | 推古・聖徳太子 | 仏典・律令制の調査、国書奉呈 |
犬上御田鍬 | 614 | 推古 | 隋末期の情勢視察、律令導入準備 |
いずれも隋の官制・仏教・暦法を直接吸収する「制度学習外交」が中心だった。
2. 遣唐使を送った主な人物(時期別)
フェーズ | 送り手(天皇) | 年代 | 主な狙い | 代表的大使・留学生 |
---|---|---|---|---|
初期 | 舒明・孝徳 | 630–660 s | 唐との国交樹立、律令雛形の収集 | 犬上御田鍬 |
盛期 | 文武・元明・聖武 | 702–752 | 大宝律令完成、平城京建設、人材育成 | 粟田真人、吉備真備、阿倍仲麻呂 |
末期 | 桓武 | 804・838 | 密教導入、航路変更(南路) | 最澄、空海、藤原常嗣 |
中止 | 宇多(建議は菅原道真) | 894 | 治安悪化・学習効果の頭打ち | — |
盛期以降は「大型船団で総合的に学ぶ“国家留学プロジェクト”」へ発展し、最澄・空海を介して密教が定着、律令制の最終整備に直結した。
3. 代表的な使節と具体的成果
- 粟田真人(702) – 律令法典や都市計画を詳細に調査し、大宝律令の施行を後押し。
- 吉備真備(717–735) – 儒学・天文学・兵学の諸書を導入し、朝廷の政策立案に活用。
- 阿倍仲麻呂(717) – 科挙に合格し唐官僚として活躍、長安で最新情報を日本へ発信。
- 最澄・空海(804) – 天台・真言密教を直接相承し、平安仏教の二大潮流を築く。
- 菅原道真(894・任命のみ) – 「行路危険・唐乱れ」を理由に派遣中止を奏上、以後公式使節は終息。
4. 目的を整理すると…
- 制度刷新 ― 律令・科挙・都城制の導入で中央集権国家を整備。
- 文化・宗教輸入 ― 仏教・儒学・暦法・医学・工芸など多面的な吸収。
- 国際地位の確保 ― 東アジア秩序のなかで倭国の対等性・独自性を主張。
- 安全保障 ― 朝鮮半島や蝦夷征討をにらみ、唐との協調で背後を固める。
✅ 暗記ヒント:
「妹子→学僧輸入」「真人→律令完成」「真備→文武百官の先生」「最澄・空海→平安の新仏教」「道真→終止符」と人物‐成果をセットで覚えると整理しやすい。
遣隋使・遣唐使の回数と成果まとめ

1. 公式回数は“ひとつじゃない”
最新の研究では、史料に乏しい隋末期と、唐への「任命だけで出航しなかった」ケースをどう扱うかで 回数に幅 があることが知られています。
使節 | 代表的なカウント | 根拠となる学説・史料 | メモ |
---|---|---|---|
遣隋使 | 4 回説(600・607・608・614) | 『隋書』倭国伝・『日本書紀』推古紀 | 610 年の「幻の第2回」を含め 5–6 回説 も存在 |
3 回説 | 600 年と607 年を同一視 | 年次誤記を修正する立場 | |
遣唐使 | 20 回任命・16 回渡航説 | 東野治之・木宮泰彦らの一覧表 | 送唐客使や渡海失敗を含めると 20 回、実際に長安へ至った船団は 15–16 回 とみるのが主流 |
18 回/19 回説 | 森克己・木宮泰彦 | 渡海成否や補給船を区別する立場 |
✅ 暗記のコツ:
- 遣隋使=“短期集中4”
- 遣唐使=“長期プロ16”(=実働 16)。
2. 遣隋使 ― 15 年で国家をアップデート
分野 | 主な成果 | 具体例 |
---|---|---|
政治制度 | 中央集権の“ひな形” | 冠位十二階(603)・十七条憲法(604) |
宗教・思想 | 仏教経典・僧侶の直接招聘 | 僧旻・高向玄理を要職に登用 |
技術・文化 | 漢字文書・暦法・瓦葺き | 飛鳥寺瓦・太陰太陽暦の採用 |
外交 | 対等外交の先例 | 国書「日出づる処の天子」事件 |
短期間ながら“制度パッケージ”を一気に輸入し、大化改新以降の律令化へ直結した。
3. 遣唐使 ― 260 年続いた“総合留学プロジェクト”
分野 | 主な成果 | 代表的人物・事例 |
---|---|---|
律令法・行政 | 大宝律令(701)・都城制 | 粟田真人が長安の条坊を調査し平城京へ応用 |
学術・科学 | 儒学・天文学・医学 | 吉備真備が『周易』『兵法』『星経』を大量に持ち帰る |
宗教 | 密教(天台・真言) | 最澄・空海が曼荼羅・灌頂儀礼を導入し平安仏教を樹立 |
芸術・生活様式 | 唐風衣装・楽舞・陶磁 | 「天下百姓衣服、悉令仮唐様」— 多治比県守の帰朝奏上 |
航海・造船 | 外洋航行技術の高度化 | 8 世紀船団は四隻編成・500 名規模、平均 6–9 日で東シナ海横断 |
政治・宗教・生活文化まで“フルセット”で吸収し、奈良~平安初期の国家と社会を形づくった。
4. 両使節の成果を一言で
東アジアの巨大帝国と向き合いながら、日本は 「短期集中→長期深化」 という二段ロケットで近代的な国家基盤と独自文化を完成させたと言えます。
✅ ポイント:
- 遣隋使=“制度の種”を蒔いた15 年間
- 遣唐使=その種を育て、律令国家と国風文化へ実らせた260 年間
遣隋使と遣唐使の違いをわかりやすく解説【比較表付き】

- 遣隋使と遣唐使の違いを一覧で比較
- 目的・背景の違いを理解しよう
- 人物名一覧と特徴的なエピソード
- 受験対策に役立つ暗記ポイントと覚え方
- 遣隋使・遣唐使の頻出問題と解答例
遣隋使と遣唐使の違いを一覧で比較

比較項目 | 遣隋使 | 遣唐使 |
---|---|---|
派遣期間 | 600 – 614 年 | 630 – 838 年(計画中止 894 年) |
派遣回数 | 4 – 5 回 | 実渡航 15 – 16 回(任命は約 20 回) |
主目的 | 隋との国交樹立・統治制度の“パッケージ輸入” | 律令国家を完成させるための総合学習外交 |
船団規模 | 2 隻前後・乗員約 120 – 200 人 | 盛期は4 隻編成・乗員約 500 人 |
航路 | 北路(朝鮮半島沿岸経由)中心 | 初期=北路 → 702 年以降は南路・南島路(五島列島や奄美経由) |
代表的人物 | 小野妹子・犬上御田鍬 | 粟田真人・吉備真備・阿倍仲麻呂・最澄・空海 |
主な成果 | 冠位十二階・十七条憲法・仏教の定着 | 律令法典・都城制・密教・唐風文化一式 |
終焉理由 | 隋の滅亡 | 唐の治安悪化+菅原道真の中止建議 |
1. 派遣期間・回数
- 遣隋使は 600 年(『隋書』倭国伝)~614 年 のわずか十数年、公式には4〜5回のみ派遣。
- 遣唐使は 630 年(犬上御田鍬)に始まり、最後の帰国が838 年。その後 894 年に菅原道真が「危険・無益」を理由に正式中止。実際に唐へ渡ったのは15〜16回と数えるのが主流です。
2. 目的の違い
- 遣隋使=「まず隋と対等に国交を開く」ことが核心。隋から最新の官制・仏典をまとめて持ち帰る“制度パッケージ輸入”型。
- 遣唐使=国家アップデートを続ける“学習外交”へ発展。律令法の細部、都城プラン、学問・宗教・芸術まで網羅的に吸収し、日本流に消化する段階に入りました。
3. 規模と航路
- 遣隋使は 2 隻・200 人規模の小船団で、比較的安全な北路を利用。
- 遣唐使は 8 世紀に入ると 4 隻・500 人規模へ拡大し、朝鮮半島を経由しない南路・南島路を採用。航海日数は 最短 3 日強に短縮できた例もあります。
4. 代表的人物と成果
- 遣隋使:小野妹子の国書事件や 犬上御田鍬による律令調査が象徴的。<十七条憲法・飛鳥寺瓦>など革新的制度と文化の“種”を蒔いた。
- 遣唐使:粟田真人(702 年)による都城制調査、吉備真備の学問導入、阿倍仲麻呂の科挙合格、最澄・空海の密教伝来がハイライト。律令完成~平安仏教・国風文化へ直結。
目的・背景の違いを理解しよう

1. 「対等外交」への挑戦 vs 「学習外交」の成熟
- 遣隋使(600-614 年)
倭国の国書に見える「日出づる処の天子―日没する処の天子」問題は、従来“対等外交”と説明されてきました。近年は河上麻由子氏らの再検討により、「形式は朝貢だが文言に倭王の主体性を織り込んだ折衷モデル」と評価が修正されています。狙いは 隋皇帝に直接アクセスして国際承認を得つつ、冊封秩序の枠内ぎりぎりで自主性を主張する ことでした。 - 遣唐使(630-894 年)
一方、唐との関係は はじめから朝貢的儀礼を受け入れ、その代償として巨大な知の宝庫に長期留学する「学習外交」 が柱。唐側の冊封ネットワークに“加盟”する代わりに、律令・都城・文物・仏典をフルセットで持ち帰り、日本流に再構築することが目的でした。
2. 国内改革で求められたもの
- 遣隋使の時代背景
推古朝は豪族連合政権を整理し、中央集権へ踏み出す「制度の種まき期」。冠位十二階・憲法十七条の原型を探るため、短期集中で派遣されたのが遣隋使です。 - 遣唐使の時代背景
大化改新後、律令国家を本格稼働させる「実装・運用期」へ。唐の成文法、科挙、都市計画を学ぶには長期かつ大規模な派遣が不可欠となり、粟田真人・吉備真備らを中心に “官僚養成留学” が繰り返されました。
3. 宗教・文化導入のモチベーションの差
- 隋からの導入―主に経典と僧侶(僧旻・高向玄理など)を招聘し、飛鳥仏教の基礎を築く「導入第一段階」。
- 唐からの導入―戒律の整備→天台・真言密教の直輸入へ発展。「学僧+技術者+芸術家」をワンセットで送り込み、国風文化の母体を形成しました。
4. 安全保障と航路選択
- 遣隋使は朝鮮半島沿岸の北路を採用。百済・新羅情勢を偵察しつつ航海する「情報収集ミッション」の色彩が濃い。
- 遣唐使は新羅統一(668)後に半島経由の外交的メリットが薄れたため、南路・南島路(五島列島→沖縄諸島→福建)にシフト。外洋航行技術の発達と、朝鮮半島リスク回避という安全保障上の判断が背景にあります。
人物名一覧と特徴的なエピソード

- 小野妹子 (おの の いもこ) — “日出づる処の天子”国書事件
607 年、隋の煬帝へ届けた国書で倭王を「天子」と称し、対等外交を主張。煬帝は激怒したが、高句麗遠征への思惑もあって妹子を厚遇し、翌 608 年には自らの使者・裴世清を同行させ帰国させた。日本の外交史に残る痛快な“問題提起”だった。 - 犬上御田鍬 (いぬかみ の みたすき) — 最後の遣隋使にして最初の遣唐使
614 年に隋へ渡ったのち、630 年には舒明天皇の命で第1回遣唐使の大使に任命。2つの王朝をまたぐ“リピーター”として、僧旻ら学僧を伴い唐風制度導入の橋渡しを務めた。 - 粟田真人 (あわた の まひと) — 702 年、500 人・4隻の大型船団を率いる
大宝律令完成の前年に出発した第6次遣唐使。長安で条坊制や官制を徹底調査し、帰国後は平城京造営と律令運用の実務を指揮。唐側史料はその博識と礼節を高く評価している。 - 吉備真備 (きび の まきび) — 17 年留学、知のスーパーバックパッカー
717 年出発の第9次遣唐使に随行して長安へ。儒学・天文学・兵学ほか500 巻以上の書籍・楽器・武具を携えて735 年に帰国し、大学寮教授から右大臣へと昇進。後世「日本のシルクロード」と呼ばれる文化回路を切り拓いた。 - 阿倍仲麻呂 (あべ の なかまろ) — 唐名・晁衡、科挙に合格した唯一の日本人
同じ第9次船団の留学生。唐の玄宗に仕え、官吏として洛陽・長安で活躍。帰国を願うも度重なる難破で叶わず、異国で没した。「天の原 ふりさけ見れば…」の歌は望郷の情を伝える。 - 最澄 (さいちょう) — 天台教学を1年で“超速習得”
804 年の遣唐使で入唐。天台山で戒律と教学を修め、帰国後に比叡山延暦寺を開創。日本発の大乗戒壇を構想し、平安仏教のキャズムを越えた。 - 空海 (くうかい) — 密教フルセット2千巻を持ち帰る
同船団で青龍寺の恵果から金剛界・胎蔵界両部伝法を受け、わずか2年で帰国。膨大な経典・法具・工芸技術を携え、真言宗を開宗。「弘法も筆の誤り」の逸話どおり書芸の達人でもあった。 - 菅原道真 (すがわら の みちざね) — “もう行く必要なし”と派遣を止めた男
894 年、大使に任命されるや「唐は乱れて危険、学ぶものも尽きた」と上奏。朝廷は計画を白紙にし、ここに260 年続いた遣唐使は終焉。没後は学問の神・天神さまとして祭られる。
受験対策に役立つ暗記ポイントと覚え方

1. 年号は“語呂合わせ+ストーリー”で一網打尽
事項 | 年号 | 語呂 | つなげて覚えるミニストーリー |
---|---|---|---|
遣隋使開始 | 600 | むっ、(600)隋に行こう! | 推古朝が「むっ」と決意して隋へ直行。 |
小野妹子の国書 | 607 | ロナウド(607)シュート! | 国書という“強烈シュート”で煬帝のゴールを揺らす。 |
犬上御田鍬(最終遣隋) | 614 | むいっしょ(614)に帰る | 隋も末期、“さぁ一緒に”帰国。 |
遣唐使開始 | 630 | む・サン丸(630)で出航 | 630 隻ではないが「無酸まる」で船が腐らず長旅OK。 |
大宝律令 | 701 | 名をい(701)れよ律令 | 法律で名前(位階)を確定。 |
最澄・空海渡唐 | 804 | やれよ!(804)密教 | 平安仏教ブームの号砲。 |
遣唐使中止 | 894 | はやく(894)やめよう | 唐は乱れ、もう危険! |
✅ 暗記のコツ:
語呂は「数字→イメージ→ワンフレーズ化」。ストーリーを地図帳や年表の余白に描き込むと長期記憶に定着します。
2. “人物‐成果”を5セットで押さえる
- 小野妹子 → 国書事件(対等外交の象徴)
- 犬上御田鍬 → 隋と唐の橋渡し(リピーター大使)
- 粟田真人 → 平城京&大宝律令(都城制の輸入)
- 吉備真備 → 学問の総合商社(儒学・天文学)
- 最澄・空海 → 天台・真言密教(平安仏教の核)
カード式に並べ「人物を見たら成果が口をつく」まで音読すると、共通テストの“組合せ問題”に強くなります。
3. “3ステップ年表シート”で流れを図示
- 縦軸:西暦・和暦・中国王朝名を3段に並べる
- 横軸:隋→唐→遣唐使中止→国風文化の誕生まで
- 色分け:制度(青)・宗教(橙)・文化(緑)・人物(赤)
隋再統一〜遣隋使 | 唐律令導入〜密教伝来 | 遣唐使中止 | 国風文化誕生 | |
---|---|---|---|---|
西暦 | 589/600/607/614 | 618/630/701/710/804 | 894 | 905/927 |
和暦 | 推古 7/推古 12/推古 15/推古 22 | 舒明 2/大化 1/大宝 1/和銅 3/延暦 23 | 寛平 6 | 延喜 5 ほか |
中国王朝名 | 隋 | 唐 | (唐末・黄巣の乱後) | 五代十国期 |
主要トピック | 冠位十二階 603 小野妹子(国書)607 | 大宝律令 701 最澄・空海 804 吉備真備・阿倍仲麻呂 717 | 菅原道真の建議 894「危険・無益」 | 古今和歌集 905 延喜式 927 |
自作シートを机に貼り、朝タスクリストのチェック時にチラ見する“スキマ学習”が効果的です。
4. 試験頻出テーマ別「この1問」
テーマ | よく出る出題形式 | 30 秒暗記ワード |
---|---|---|
外交文書 | 国書の文言穴埋め | 「日出づる処」 |
航路 | 北路/南路の選択理由 | 「半島リスク回避」 |
文化流入 | 最澄・空海の宗派判別 | 「天台=延暦、真言=高野」 |
回数問題 | 遣隋 4 回 vs 遣唐 15 回 | 「短4・長15」 |
停止理由 | 菅原道真の奏上 | 「危険・無益」 |
各ワードを付箋に書いて手帳に貼り、通学中に“チラ見テスト”を繰り返すと反射的に答えが出るようになります。
遣隋使・遣唐使の頻出問題と解答例

✅ 出題傾向の特徴:
- 年代整序(600 → 607 → 630 …)
- 人物―出来事対応(小野妹子⇔国書、最澄⇔天台密教など)
- 目的・背景の比較(対等外交か学習外交か)
- 航路・地図問題(北路⇔南路/南島路)
- 停止理由の判断(黄巣の乱+道真の建議)
共通テスト2022〈第2問〉が「古代の法整備と遣隋使・遣唐使」を丸ごと扱い、正誤判定+年代整序+図表読み取りを組み合わせたセット問題を出したのが最新のトレンドです。
No. | 頻出パターン | 例題(共通テスト・私大で出題されたレベルに調整) | 模範解答 | ワンポイント解説 |
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Q1 | 年代整序 | ①600年遣隋使、②菅原道真の建議、③最澄の入唐、④犬上御田鍬の遣唐使――正しい年代順に並べ替えよ。 | ①→④→③→② | “スタート600→630→804→終息894”の流れを思い出せば即答。 |
Q2 | 人物対応 | 小野妹子/吉備真備/空海――それぞれに最も深い関連をもつ語句を〈国書事件・大宝律令・真言密教〉から選べ。 | 小野妹子=国書事件、吉備真備=大宝律令(施行推進)、空海=真言密教 | 真備は律令「完成後」の人だが、実務運用で活躍した点を押さえる。 |
Q3 | 正誤判定 | 「遣唐使はすべて北路を利用した」――〇か✕か。 | ✕ | 702 年以降は南路・南島路が主流。航路図とセットで出る。 |
Q4 | 資料読解 | 円仁(入唐僧)が残した『入唐求法巡礼行記』の一節を読み、帰国航路の特徴を説明せよ(50字以内)。 | “新羅人の水手を雇い南路で帰国した危険な航海” | 2019 センター問3でも出題。史料は難しくても「新羅人」「船」というキーワードを拾う。 |
Q5 | 理由説明 | 遣唐使が 9 世紀末に中止された理由を〈治安/目的〉の2視点で 40 字以内で述べよ。 | “唐末の黄巣の乱で航海が危険となり、必要な制度・文化を概ね習得し終えたため” | 「危険+無益」は菅原道真の決定的フレーズ。 |
✅ 直前対策テク:
- 年代整序は「むっ隋→む・さ・く・や・く」(600→630→804→894)の語呂を横軸の背骨に。
- 人物カード法:裏に成果を書いた赤カードを5枚作り、シャッフルして30秒で表裏セットを完成させる速答ドリル。
- 航路は地図で色分け:北路=黄、南路=青、南島路=緑にマーカーすると視覚記憶に残りやすい。
遣隋使と遣唐使の違いを押さえる要点まとめ
この記事全体の要点を以下にまとめます
- 派遣期間は遣隋使600~614年、遣唐使630~894年である
- 回数は遣隋使4~5回の短期、遣唐使実渡航15~16回の長期である
- 遣隋使の核心は対等外交と制度パッケージ輸入、遣唐使は体系的学習外交である
- 船団規模は遣隋使約200人2隻、遣唐使500人4隻へ拡大した
- 航路は遣隋使が北路、遣唐使が702年以降南路・南島路を採用した
- 遣隋使は冠位十二階・十七条憲法の種を持ち帰った
- 遣唐使は律令法典・都城制・科挙的選抜を本格導入した
- 仏教導入は遣隋使が経典と僧侶、遣唐使が天台・真言密教を輸入した
- 外交姿勢は遣隋使が冊封回避の対等宣言、遣唐使が朝貢儀礼を受容した
- 安全保障面で遣隋使は半島情勢偵察、遣唐使は外洋航行技術を整備した
- 主要人物は小野妹子・犬上御田鍬に対し、粟田真人・吉備真備・最澄・空海が活躍した
- 終焉理由は遣隋使が隋滅亡、遣唐使が黄巣の乱と菅原道真の建議で中止となった
- 国内改革では遣隋使期が中央集権化の起点、遣唐使期が律令国家の完成期である
- 文化面で遣隋使が飛鳥文化を刺激し、遣唐使が奈良・平安文化の基礎を築いた
- 両使節は「短期集中で種を蒔き、長期深化で実らせた」二段ロケット構造である